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2008年第3号 地域のパンデミック・プランニング 地域医療の現場の守り 戦術 その1
「脅し過ぎ」vs「蛮勇の押付け」を憂う:新型インフルエンザから逃げてはいけない。でも基本は、「やっぱり怖い」のだ。

西村秀一

独立行政法人国立病院機構仙台医療センター 臨床研究部病因研究室長・ウイルスセンター長

はじめに

本連載の順序からいくと、僻地から中小の市や町の医療の戦略の話がややひと段落つき、戦術に移り、次は大都市の番であった。だが、前回の分を書き終えたあたりで、ひとつの出来事があり、そこに見過ごせない危険なものを感じたので、ここに意を決してそれに対する警告を書かせていただくことにした。一部、エッセイとして気軽にお付き合いいただきたい。

インフルエンザの感染様式をどのように想定するか?

インフルエンザは接触感染しかしないというのは論外として、インフルエンザは飛沫感染か飛沫核感染かという論争がある。感染制御の類の本では、今でもインフルエンザは飛沫感染だと当然のように記されている。飛沫と飛沫核を隔てるものは唯一、粒子径5μm(マイクロメーター)で、その飛沫というものが到達できる距離はせいぜい1メートルであり、したがってそれに含まれる(それにしか含まれないとも読み取れる)ウイルスの到達も最大そこまでだという。

だが、結論から言えばこの論争、決着はついていない。というより、筆者に言わせればむしろそこを区別する方が不自然である。敢えてその2つに分けるとしても、どちらにも感染力を維持したウイルスは存在可能で、現段階ではどちらか一方だけが感染ルートであるとはとても思えない。粒子径5μm(マイクロメーター)にしてもその大きさの粒子は十分空中を長時間浮遊する大きさだからである。

これに関しては昨年あたりにEID誌で論争があり1,2、ランセット誌でもレビューがあった3。後者は、メタアナリシスで一見、飛沫感染(Large dropletsによる感染)を支持し、空気感染(敢えて飛沫核感染とは言わない)を否定しているようで、これでこの論争に決着がついたと誤解している向きもあるが、じつはその著者らにも定義の混乱があり、必ずしも空気中に浮遊している粒子による感染を否定しているものではない。確かに彼らが言うように、風に乗って廊下を移動し、隣の部屋の患者まで感染させるようなことはないのかもしれないが(筆者もそうは思う)、同室で直接顔に飛沫をかけられた以外の空中浮遊粒子で感染することまでは否定されていない。さらに言えば、至近距離での感染であっても、それが浮遊しないLarge dropletsによるものか浮遊粒子によるものかを言える人はだれもいないはずである。通常のインフルエンザでは、以上である。

それでは、(1)「現在のH5N1の鳥インフルエンザの場合」は、あるいは(2)「それがやっとヒト-ヒト感染を起こすようになったとき」、さらには(3)「効率よく感染するようになりパンデミックを起こしたとき」はどうなるのか? それは、今のところ情報が少なすぎてよくわからないとしか言いようがない。だが、たぶん言える事は、(3)の場合には、通常のインフルエンザと同じような感染形式となっている確率が高いだろうということである。

それでは、われわれは臨床現場でどの事態に備えるべきなのか? (1)、(2)への対策は比較的容易である。それでも、それが(3)に繋がる可能性はある。そして、その境目がどこにあるのか、誰にもわからない。よって筆者は(1)、(2)であろうが、患者が少数の初動であろうが、(3)の場合に対処できる態勢をとらねばならないと信ずる。ましてや、H5N1以外の亜型の流行まで想定の範囲を拡げたら、なおさらのことである。

「新型インフルエンザは怖くない!」……?: A市のシミュレーション訓練

この2月はじめ、A市の市立病院で新型インフルエンザ流行に備えた初動訓練が行なわれたという。それ自体は結構なことである。だが、テレビも含む大々的になされたメディア報道を見て驚いた。「新型インフルエンザは空気感染しないので、身近にあるマスクを使うのが現実的」(報道原文のまま、筆者下線)として、それを前提に訓練をしたという。「少数の感染を想定」した「初動対応」の訓練というふれ込みだが、筆者がいちばん驚いたのは、「ふつうのマスクで十分」といった誤ったメッセージが何のためらいもなく発せられていることであった。それを墨守すれば、インフルエンザより感染力の劣るSARSでさえそうであったように4 医療従事者を介した医療機関が震源地となる、市内での二次流行が起きてもおかしくない。どうして、そのような大事なことを今の段階で安易に断定できるのか。本気でそう理解しているのなら、完全な勉強不足である。

怖がり過ぎと蛮勇

新型パンデミックを題材に未来予測をセンセーショナル、エモーショナルに全国に流したNHKのスペシャル番組に代表される、新型インフルエンザをとりまく昨今の過剰な脅し過ぎの風潮は、医療従事者の士気を下げる可能性が高く、これまで筆者も何度も警告してきたように間違いなく問題である。想像するにA市の訓練では、これに一石を投じ、一般市民がパニックになるようなことがないようにしようという狙いがあって、ふつうのマスク云々とやったのだろう。それなら動機は正しい。だが、内容が間違っている。

問題は一般市民のレベルの話ではない。アイソレーターとか宇宙服のような極端な防御は論外としても、無理のない道具がそろった、あるいはふつうに努力すればそうした道具が手に入る医療機関で、敢えてそれを用いないということが問題なのである。とても理解できない。

それを病院の医療従事者側が、唯々諾々と受け入れるとはとても思えない。よしんばその病院は無理やりそうなろうとも(このままでは相当の離反者を覚悟しなければならなくなるが)、市内の他の病院までそれに従う義務はないし、とてもそうするとは思えない。ということは、同じ市中で病院によって防御のやり方が異なることになる。ましてや、日本中の医療機関がこれに倣うとはとても思えない。自治体が自分のところの対策に責任を持つのはいい。だが、それでは全国標準にはなり得ない。病院の医療従事者を無用な危険に曝す可能性を孕んでいるが、その結果に対してどう責任をとるというのか。これでは怖がり過ぎは修正されるが、勢い余って蛮勇である。

まさに、寺田寅彦の言葉、「ものを怖がらなすぎたり、怖がりすぎるのはやさしいが、正当に怖がることはなかなか難しい」5 をまさに地で行くものである。

この一方的蛮勇強要の状況について、たとえ話をしてみたい。少々長くなるがおつきあい願いたい。

ゼロ戦と飛行機乗り

いつだったか、NHKテレビでこんな内容の放送を見た覚えがある。ゼロ戦の話である。第2次世界大戦、緒戦で航空機の戦いにおける破竹の勢いでの勝利に海軍のゼロ戦の果たした役割は大きかった。すばらしい機動性で空中戦では無敵ともいえる力を発揮し、敵の飛行機をやすやすと撃墜していった。

だが、そのゼロ戦にも問題があった。まず、機動性を最優先させたばかりに構造上脆弱で、急降下の際にかかる大きなG(重力負荷)に絶えられる限界が浅く、じつはそのために事故まで起きていた。だが、その事実は上層部で握りつぶされた。そして次に防御。ゼロ戦の機動性は防御をも犠牲にしており、身軽だが、相手の弾が当たったらひとたまりもない。

日本の技術者たちはこれらを理解し、ゼロ戦の改良に取り組もうとしていた。構造の強化とコックピットと燃料タンク周辺の防弾の強化を進言。ただし、重量が増すことで若干機動性を犠牲にしなければならない。 はたして進言は上層部に採用されるか。実は、会議の席上これに真っ向から反対したのが、だれあろう当のパイロットを束ねるパイロット出身の参謀だった。敵の弾など、日々の猛訓練でよけられる。弾に当たる方が悪いし、そんなことを言えば「腕よりも機械に頼る腰抜けどもを増やすだけ」と技術屋を一喝、議論にもならなかった。

そして敵も、ただ手をこまねいているわけではなかった。その後、空中戦におけるゼロ戦の優位は、完全に崩れていく。

一方、それとは反対の側(米軍の側)からの視点での番組も見た。昨年6月、カナダでのインフルエンザオプション会議で宿泊したホテルの部屋でたまたまスイッチを入れて目にした番組で、当時の戦闘機乗りへのインタビューも含め、米軍側のさまざまな戦術上の工夫を知ることができた。

当初は相手の機動性能に圧倒され「Zero Fighter」は恐怖の的だったという。たまたま空中で出くわして味方が複数機で相手が1機でも逃げることが許された。

だが、偶然の出来事から情勢は一変する。ほとんど無傷の状態で不時着機を捕獲し、その後徹底的に分析し、ゼロ戦の弱点を見抜いていった。ほぼ完全な形で入手したその機体にテストパイロットが乗り込み、性能をとことん試し、その成果を実戦でパイロット全員が共有した: 構造上の脆弱性を見抜いた彼らは、みなにこう伝えた。空中戦になって後ろにつかれたときには「ダイブ」だ。全速力で左旋回しながら急降下しろ。そうすれば「Zero」は追って来られない。追ってきても最後はあっちが空中分解するだけだ。また、こんな戦術も練っている。たまたま空中で出くわし、味方が二機で相手が一機で逃げるようなときには、互いに航跡が交叉し絡み合うように右、左に連続S字旋回しながら下降していけ。そうすれば、後ろにつかれても片方がつかれた方を守ることができる。上から急速度で迫ってくる「Zero」が勢い余って自分たちを追い越せば、逆に自分たちの射程に入る、等々・・・。こうした戦術の工夫と共有のおかげであちらはどれだけのパイロットの命と飛行機が助かったか。

さらには、「Zero Fighter」は防弾壁が極端に薄いことにも気付く。ということは、コックピットや燃料タンクの周囲に弾が当たれば確実に相手のパイロットの命を奪えるのである。こうしたゼロ戦についての知識が増えていくたび「Zero」への恐怖も薄らぎ、とてもかなわない相手ではないという感触を得る。士気の向上である。

一方で自軍機のゼロ戦対策に向けた改良が進む。急降下に耐えられるよう構造の強度を確保し、またたとえ機銃の弾が少々当たってもコックピットや機の心臓部は守られるよう防弾壁を厚くした。少々ジャブ(「Zero」の機銃の破壊力は、そうは強くないと判断)は食らっても、一発でノックアウトにつながるようなアッパーカット(パイロットが撃たれるとか、燃料タンクに火がつくとか)は食らわないという発想である。その分重量が上がり機動性が犠牲になるのだが、それはエンジンのパワーアップで克服する。そしてその後、逆に彼らにとって・・・彼ら、当時パイロットだった退役軍人のインタビューでの表現を借りれば・・・「Zeroなどeasy game(簡単に落とせる獲物)」になっていく。

どうして、米軍ではそうした発想が生まれたか? それは、パイロットへの尊敬の念ゆえである。米軍はパイロットを非常に大事にしたのである。今にしてみれば戦争を知らない私たちでも理解できることだが、彼らがいなければ、この戦争には勝てないという、ごくあたりまえのことを理解し、それに沿った行動をしていた。

片や日本は、パイロットを大事にしないとまでは言わないが、戦闘機乗りの親玉のような高級将校が自分の技量を基準に考えたのか、あるいは当初の連戦連勝の成果で過信が生まれたのか、パイロット個人の軽業師のような名人芸ですべてが解決できるかの如く、技術屋の進言をないがしろにし、その後の方針を誤った。米軍側もあるいは米軍だからこそ、いつまでもやられっぱなしではない、きっと何か工夫してくるだろう、ということが考えられなかったようである。案の定、米軍はシステムとしてゼロ戦に立ち向かい、これを克服した。

一人の参謀の勝手な思い込みとそれを諭せなかった上層部のために、どれだけのゼロ戦のパイロットの命と機体が失われ、そして戦局全体が変わっていったか。多くの優秀なパイロットが空に散り、最後はろくろく訓練も受けていない若者の命の無駄遣いである。井の中の蛙のような人間が上に立つ悲劇である。

余談ではあるが、判断を誤ったその彼だが、自他とも許す戦闘機乗りの頂点のような世間的には華々しい存在だったが、実は自らは実戦での空中戦の経験はなかったとされている。また、後にはあの特攻隊攻撃の「影の立案者」となったともいう。そして自らは生き残り、戦後、参議院議員にまでなる。

リーダーは必ずしもみな実戦に通じている必要はない。的確な判断を下せる能力があれば十分である。大事なのは(価値観が相反することもあるかもしれないが)現場の人間に対するシンパシーがあるかどうかと客観的な見方ができるかだと思う。少なくともそれらの間で悩まねばならない。

このゼロ戦話の中に、われわれの新型インフルエンザ対策を考える上での教訓がいくつかある。この話にA市の対策を重ね合わせると、さらによくわかる。

ひとつは敵(リスク)をよく知ること。次に自分の不都合(自分たちに欠けているもの)に目をつぶらないこと。相手に合わせた論理的に正しい戦術を工夫し、みなで共有すること。あとは、敵の弾をウイルスに、パイロットを医療従事者に置き換えてみればいい。適切な分析もないうちから相手はたいしたことはない(空気感染はしない)、きちんとやれば防弾(性能の良いマスクや抗ウイルス薬の予防投与)もいらないと言い切ることの愚かしさである。敵(新型インフルエンザ)など恐れるに足らず、パイロット(医療従事者)は弾(ウイルス)がいくら飛びかっていようと、日々の訓練でふつうのマスクと標準予防策の徹底だけで撃墜などされない(感染は免れる)と、彼らに無駄な危険を強要する愚である。

そして、もうひとつの大切なこと。それは、上に立つ人間の、他の人の意見を求め、あるいは部下の進言に素直に耳を傾けることの大切さである。少なくとも他人の意見を頭から否定するようなことはせず、真摯に議論することである。

当院の例:サージカルマスクとインフルエンザ罹患

この3月末、当院で実際にあった話である。ひとりの外泊患者がA病棟に戻った。その患者は咳をしていた。後日、インフルエンザと判明。判明の翌日その病棟の看護師が発熱し、検査でインフルエンザと判明。その翌日、さらに二人の看護師がインフルエンザを発症。このころは、ほとんど市中のインフルエンザの流行もなく、これらの看護師たちは、プライベートに周囲にそれらしき感染者はおらず、われわれのウイルスセンターも暇であり、そのころの患者はこのA病棟の四人だけであった。これらの看護師たちはみなこの外泊患者が病棟に帰ったあとケアにあたった人たちであり、(全員からA型H1亜型ウイルスを分離)、状況証拠的にはみなこの患者からインフルエンザをうつされたと考えられた。

問題は、マスクである。われわれの聴き取りに対して彼女らは、この患者のケアの際、患者が咳をしているために全員、サージカルマスクを着用していたというのである。

可能性は2つである。サージカルマスクが、機能的にインフルエンザウイルスの進入を防げなかったか、彼女らのマスクのかけ方が悪かったかである。

さて、なぜこの話をここに持ち出してきたか? それは、この出来事の中にも教訓があるからである。

改めて医療現場における医療従事者の防御をどうすべきか考える

お断りしておくが、筆者の主張は、何が何でも最大限の防御が必要だというのではない。できるだけ正しくリスクを評価し、それに見合った対応をするべきだと言っているのである。ゆえに、これまで、宇宙服のようなPPEとか棺おけ状患者輸送カプセルなど必要ないし、むしろ大局的には事前のリスクコミュニケーションという意味で対策の足をひっぱりかねないと、ことあるごとに発言してきた6,7。本稿では、紙面の都合でさまざまな行為や環境とそれぞれの感染に通じるリスクの詳しい話はできないが、いずれしてみたい。

さて、患者家族を除いてリスクが一番大きいと思われる患者対応の医療従事者も、サージカルマスクをつけていれば万全なのだろうか? 医療現場でのインフルエンザの感染防御にサージカルマスクで十分だという科学的評価に堪えうる仕事はまだない。上記のケースを受けて考えれば、初期対応であっても、また、まだ資材が十分にある初期の対応だからこそなおさらのこと、性能の良いマスクが入手できるにもかかわらず敢えて性能の劣る方のマスクを使わせるという方針は、受け入れ難い。たしかに現時点では、科学的にはそれで良いか悪いか確定できないが、どちらに転んだときにどちらが社会にとって危険かを考えれば、この判断はまちがっていると言わざるを得ない。

そして、さらに考えてみてほしい。私たちは、最終的にはパンデミックを論じ、結局は多くの患者が出て、多くの医療従事者がそれに対応しなければならない状況を考えなければならないのである。これまでも言ってきたように8,9 医療従事者が絶対的に不足しており、できる限り医療従事者のドロップアウトを防がねばならない状況を考えればなおさらのこと、私たちは大事なパイロット(医療従事者)を守らねばならない。そうでなければ、その時、医療は支えられない。地域住民の健康がどれだけ彼らに依存しているかの認識が甘ければ、そこが崩壊した先に待っているものが、自らが一番警戒している「市民の混乱」であることにも気付けないのかもしれない。

さらに言わせてもらえば、敢えて性能の悪いマスクを使わせるという方針は、医療従事者への思いやりと敬意が感じられない。大事にされていないと感じる人間が、大事にしてくれない人たちにどれだけ本気でついていくか? 今は、お国のためにわが身を犠牲にせよという時代ではない。現場の士気の問題は非常に大切である。人の上に立つ側は、そこにも気付くべきである。

一方で、どんな性能の良いマスクを持っていようと、装着のし方が正しくなければ役に立たないというのも真理である。だれもが言うとおり、装着の仕方の訓練、教育は非常に大事である。だが、それだからといって、先のような感染例を単なる訓練不足で片付けるのは、先のゼロ戦話のように、新型対策を考える上では安易な理解であり、高性能マスクは不要だというのは乱暴な論理である。

ところで、百歩譲って物理的にサージカルマスクで十分だとして(本当はそれもまだ科学的に確固としたものがないのが現状である)、それでは感染した看護師を非難すれば事足りるのか? 筆者は、そうではないと思う。どんな性能の良いマスクを持っていようと、どんなに高い技量を持とうと、人間はミスをするものである。油断すれば、あるいは油断とまでは行かなくとも、ちょっとしたまちがいは、かかわる人間が多ければ多いほど出てくる。それは、多くの患者と多くの医療従事者が交錯するパンデミック時の医療現場では当然想定しておかねばならない。

紙面の都合でここで長々と書くわけにはいかないが、そうした意味も含め、大事なパイロットを守るFail-safeの整備の考え方もあって然るべきだと思う。それも考えれば、これも以前から述べていることだが7、彼らへの抗インフルエンザ薬の予防投与の考え方も当然含まれる。さらにそれが彼らの士気の維持にも少しでも繋がるのであれば、なおさらである。

さいごに

大事なことは、どこに(どのような行動に)どの程度リスクがあるかであり、だれをどのように守るかである。それによって対策は異なってくるし、またそれなくしては怖れ過ぎと蛮勇が跋扈しかねない。次回は、現場でのリスク評価について書ければと思っている。

筆者は、本稿で、上に立つ人間は他の人の意見を求め、他人の言葉に素直に耳を傾けることが大切だと言った。筆者は上に立つ人間ではないが、意見や反論は喜んで受けるつもりである。コメントをお待ちしたい。

References

  1. R. Tellier: Review of aerosol transmission of influenza A virus. EID 12: 1657-1662, 2006.
  2. C. Lemieux et al.: Questioning aerosol transmission of influenza. EID 13: January (A letter in the Web Version: http://www2a.cdc.gov/ncidod/ts/print.asp), 2007.
  3. G. Brankston et al.: Transmission of influenza A in human beings. Lancet Infect Dis 7: 256-265, 2007.
  4. 西村秀一ら: 新型肺炎SARS台湾視察報告. 公衆衛生情報33: 50-53, 2003.
    http://www.snh.go.jp/Subject/26/pandemic_planning/2003-001.pdf
  5. 寺田寅彦: 随筆「小爆発二件」
  6. 西村秀一: 平成19年1月31日版「新型インフルエンザに関するガイドライン(フェーズ4以降)(案)」について インフルエンザ8:145-150, 2007.
  7. 西村秀一: 地域のパンデミックプランニング(12) 小〜中規模の市や町の守り(その1)戦略(ストラテジー)について インフルエンザ8:251-257, 2007.
  8. 西村秀一: 地域のパンデミックプランニング(13) 小〜中規模の市や町の守り(その2) 迷走:地域の医療現場の悩み. インフルエンザ8:333-336, 2007.
  9. 西村秀一: 地域のパンデミックプランニング(14) 小〜中規模の市や町の守り(その3)医療を疲弊させないための戦略 インフルエンザ9:69-75, 2008.
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